庄野大念仏踊りの現代語訳と考察

令和2年7月

善照寺第十九世住職 筧英揮

 

 庄野大念佛踊りについては、善照寺先代の住職達が歌詞を制作したと伝え聞いていますが、その意味・仏教的な考察を踏まえた現代訳が成されていませんでした。この度「庄野寄っといて音頭の記念本を作るにあたり、大念佛踊りの説明を子供にも分かるようにしたい。」との要望をいただき、改めて大念佛踊りの歌詞を考察させていただきたいと思います。

 

 まず、その時代背景を考えてみましたが、庄野郷土誌(平成5年発行 P313〜)(2)無形文化財に庄野大念佛踊り『いつ頃から始まったかはっきりしないが、およそ210年前と言われている。』との記述があります。庄野郷土史発行年の平成5年(1993年)なので、その210年前とすると天明2年(1783年)頃と推察されます。1783年というと江戸時代中期:1783年に浅間山の大噴火と、それを原因とした悪天候による1782年〜1788年に天明の大飢饉がおこり、飢餓や疫病が流行し、全国的に90万人以上が死亡したと言われています。また、飢饉により農民が都市部から各地方へ流入し、治安がかなり悪化したようで、東海道で江戸〜京都が繋がっている宿場町の庄野も、当然治安の悪化があったことが推察されます。当時の悲惨な状況を、仏教思想である「生者必滅(しょうじゃひつめつ)この世に生を受けた者は、必ず滅び死ぬものであるということ。会者定離(えしゃじょうり)会うものは必ず離れる定めにあること。」を説きながら、当時の地域治安の悪化改善と地域住民の結束、死者の鎮魂を目的とする盆踊りとして始まったのではないかと考えます。歌詞については大乗仏教の思想が色濃く、仏教に馴染みの無い人には理解しにくいところが多々ありますが、『一ツトカ〜ヨ・・・』と数え歌にして、子供や学ぶことが出来なかった方にも親しみやすい歌詞を付けています。

 

 善照寺第十二世:智丈 (ちじょう1720〜1801) 第十三世:秀泰(しゅうたい1769〜1821)と大念佛踊りの発生年数1783年を照らし合わせると、第十二世:智丈の作詞、もしくは第十二世:智丈と第十三世:秀泰の合作だと思われますが、残念ながら当時の作詞が寺に現存しません。また、第十六世:蓮橋の訂正した時のノートやメモなども見つかっていません。

 

 現代訳するにあたり、子どもにも分かりやすくするために、直訳ではなく、意味合いを重視して訳しました。注釈を確認しながら、その意味を味わっていただけると嬉しく思います。


原文:東西しずめて よく聞きなされ さてよきお庭や 見事なお庭 この良きお庭で踊ろとすれば 黄金の真砂が足につく 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:日本全国の厄災を鎮める為に、皆でこの唄を聞き踊ろう。この素晴らしい境内で踊れば、全ての佛と縁を結ぶことが出来るんだ。さあ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

東西:庄野を中心とした東海道の江戸〜京都のこと。転じて日本全国を指す。

しずめて:天明の大飢饉などの災害を、鎮めたいとの願い。

お庭:庄野郷土誌によると、当時は各寺院の境内にて歌を唄い踊ったことから、寺の境内のこと。

黄金:価値のある物の比喩表現。

真砂:佛説阿弥陀経にありますが、阿弥陀如来を称えている六方の全ての仏が恒河沙数(ごうがしゃすう:ガンジス川の砂の数ほど大きな数)ほどいる。との表現があり、真砂はそこから来ていると思われる。


原文:一ツトカ〜ヨ ひとり生まれて ひとりゆく さてもはかなき 浮世かな 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:一つ目の唄は 人はみんな生まれる時は一人、死ぬ時も一人。淡くて消えゆく、私たちの住んでいる現世だからこそ、南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

ひとり生まれて ひとりゆく:独生独死独去独来(どくしょう どくし どっこ どくらい:独り生まれ独り死し、 独り去りて独り来る。)佛説無量寿経の中にある言葉。釈迦の言葉と言われ、人は皆一人で誰とも替わることが出来ないからこそ、自分の人生を精一杯生き抜き、人との縁を大切にしなくてはならないとの教え。


原文:二ツトカ〜ヨ 再びかえらぬ 身を持ちながら なぜに後生を 願やらぬ 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:二つ目の唄は 人は死ねば、生き返ることが出来ない。しかし、私たちは目の前の生活に精一杯になってしまい、すぐに自分が死ぬことを忘れ、阿弥陀如来への信心と念仏を疎かにしてしまう。だから南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

後生:現世を過ごした後の生涯。真宗では信心と念仏を持ってすれば、必ず阿弥陀如来によって救われ、浄土へ導かれると説く。よって後生とは、お浄土のことを指す。後生を願う→浄土への生まれ変わりを願う→阿弥陀如来への信心と念仏を持つ。と解釈しました。


原文:三ツトカ〜ヨ 皆人毎に 思えども 上は大聖世尊を始め 下は提婆に至るまで のがれ難きは 無常なり 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:三つ目の唄は 人はみんな自分が死ぬことを想像もしない。しかし、お釈迦さんも弟子の提婆も、変化し死ぬことを逃れる事は出来ない。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

大聖世尊:釈迦の尊称。

提婆:提婆達多(だいばだった)のこと。釈迦の弟子の一人で、従兄弟と言われている。佛説観無量寿経に、提婆達多が阿闍世(あじゃせ)王子をそそのかして、父親の頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を幽閉した「王舎城の悲劇」が記載されており、釈迦入滅後、仏教教団を分離させたとされ、生きながらに無間地獄に落ちたとも言われる。

無常:常では無い。諸行無常からの言葉。この世のすべては変化し、少しもとどまる事はないとの考え。


原文:四ツトカ〜ヨ 世はさかさまの浮世かな 若きがさきに 立つ程に なぜに後生を 願やらぬ 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:四つ目の唄は 人は年を取って老いてから死ぬことが普通です。しかし、今は子供から死んでゆく世の中になってしまった。だから一人一人が、浄土への生まれ変わりを願うべきだ。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

世はさかさまな浮世かな:災害で治安悪化し、常識が通用しなくなった現世。

若きがさきに立つ程に:老少不定(ろうしょうふじょう)のこと。老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないことの比喩表現。


原文:五ツトカ〜ヨ 五ツ七は三十五日 三途の阿弥陀が 御加護をなされ 

二十五の菩薩と 御来迎なさる さてありがたや 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:五つ目の唄は 人が亡くなって35日目には、阿弥陀如来と25名の菩薩が迎えに来てくれ、極楽浄土に導いてくれる。なんと有り難いことだ。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

三十五日:中陰の五七日のこと。地域によって子供・女性の忌明けを五七日、男性の忌明けを七七日にすることもあり、中陰の中で大切な法要の一つ。

二十五の菩薩:亡くなる際に、阿弥陀如来と共に二十五菩薩(観世音菩薩・大勢至菩薩など)がお浄土へ導く為に迎えに来るという、浄土信仰の考え。


原文:六ツトカ〜ヨ 無常の風に さてさそわれて 早や極楽の 鐘をきく 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:六つ目の唄は この世の全ては変化している。いつしか自分も死ぬことを感じるようになった。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

無常の風・・・鐘をきく:平家物語に『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。』とあり、①無常②鐘と平家物語を掛けた言葉になっている。祇園精舎の鐘には、釈迦が説法された祇園精舎には、僧侶が亡くなると鐘を鳴らして知らせた逸話があります。死期を悟り、生命の儚さを表している。


原文:七ツトカ〜ヨ 七ツ七日は 四十九日 閻魔の前に 早やお着きあり 大帳取り出し 鏡で見れば 娑婆で作りし 罪科もなし 弘誓の船をすぐこしらえて 綾や錦の帆を巻き上げて 西の浄土へ はなやかに 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:七つ目の唄は 人が亡くなって49日目には、閻魔大王の裁きを受ける日となります。閻魔大王の台帳と鏡で、私の悪事を確認すると、私を救いたいと願う阿弥陀如来の働きによって、全ての罪が消えていました。そして、私を西にある極悪浄土へ導いてくれるのです。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

閻魔大王の大帳:閻魔帳とも閻魔台帳とも言われ、亡者の生前の記録が全て記録されていると言われる台帳。

閻魔大王の鏡:閻魔法廷には浄玻璃鏡(じょうはりきょう)と言われる鏡があり、亡者の生前の行為が残らず映し出されるとされる。

弘誓の船:衆生救済の誓いによって仏・菩薩 (ぼさつ) が悟りの彼岸に導くことを、船が人を乗せて海を渡すのに例えた語。 誓いの船。

西の浄土:阿弥陀如来が住むと言われる極楽浄土は西の方角にあるという逸話。


原文:八ツトカ〜ヨ 八万四千の そのお経よりも 南無阿弥陀仏に しくはなし 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:八つ目の唄は 沢山の教えやお経があるけども 南無阿弥陀仏の念仏よりも優れた教えはないのです。だからこそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

八十四千:仏教用語で無数の、数えきれない沢山のという意味。

真宗の開祖・親鸞聖人は一念多念証文にて『凡そ八万四千の法門(釈迦一代の教え)は みなこれ浄土(弥陀)の方便の善なり。』と南無阿弥陀仏の教えこそが、どの教え・お経よりも大切であると説いている。


原文:九ツトカ〜ヨ ここは定離の 娑婆界なれば 弥陀の浄土で 会いましょう 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:九つ目の唄は 私たちの住んでいる世界は、必ず死んで別れを経験しなくてはならない苦しみの世界です。だから死んだ後は、皆で阿弥陀如来が住んでいる、苦しみの無い極楽浄土へ向かおう。今こそ南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

定離: 会者定離から来ている言葉。会うものは必ず別れる運命にあるということ。世の中の無常なことをいう語。 

娑婆界:他の諸仏が教化する仏国土に対し、釈迦が教化するこの世界のこと。娑婆世界・人間界のことを指す。


原文:十ツトカ〜ヨ 十万億土は 程遠けれど 南無の六字を となうれば 即ちここが 浄土となり やれ有難や 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀〜ヨ

 

現代訳:十つ目の唄は 極楽浄土は私たちの住んでいる現世からとても遠いけれども、南無阿弥陀仏を唱えれば、私たちの心に阿弥陀如来への信心が芽生えてくる。なんて有り難いことだ。さあ、南無阿弥陀仏を唱えよう。

 

注釈 

十万億土:この世から、阿弥陀如来がいるという極楽浄土に至るまでの間に無数にあるという仏土。 転じて、極楽浄土のこと。

南無の六字:南無阿弥陀仏は6字で構成されているので、六字名号とも言われる。


原文:末を申せば まだ程遠い 念佛踊りは 是限り

 

現代訳:南無阿弥陀仏の念仏と、阿弥陀如来の御教えを言い尽くすことは、まだまだ出来ていないけれども、今夜の念佛踊りではこのくらいにしておきましょう。